視聴覚文化研究会

AUDITORY VISUAL CULTURE STUDIES

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第十二回視聴覚文化研究会 発表要旨集
  • 日時:2008年7月19日(土)13:30〜
  • 会場:神戸大学文学部B棟351教室(アクセス

「タカラヅカ」メロディーの研究−1970〜80年代の作品を中心に−
阪上由紀(関西学院大学大学院)

宝塚歌劇団は、女性のみが舞台に上がる歌劇団として広く知られている。宝塚歌劇にはその知名度を絶対的にした二度にわたる黄金期がある。一度目は1927年の≪モン・パリ≫に始まる、それまでの日本にはなかったレビュー及びシャンソンを宝塚歌劇が輸入し作品に取り込んだ時期である。そして二度目は、1974年に始まる≪ベルサイユのばら≫の爆発的なブームが起こった時期である。宝塚歌劇には熱狂的なファンが多数おり、初演から15年が経過した1989年の再演時にもその人気は衰えず、ベルばらブームは社会現象としても取り上げられた。それほどまでに人々の心を捉える宝塚歌劇の魅力とは一体どのようなものだろうか。今までジェンダーやファン心理学などの立場から見た研究はなされているものの、それを宝塚作品の中に追及する研究はほとんどない。また女性が男役を演じることに加え、これまで宝塚歌劇の作品の特徴として語られるものは、視覚と物語の要素に偏っており、音楽的な要素の研究は影を潜めてきた。しかしこの音楽的要素は、歌劇を公演する宝塚にとって本来なくてはならない存在であり、その音楽の持つ特徴は人々をひきつける要素を探る上で注目すべき重要な点であるといえる。本発表ではこの音楽的要素に注目し、二度目の黄金期を含む1970〜1980年代の作品を中心に取り上げ、「タカラヅカ」メロディーが持つ特徴を楽曲分析によって明らかにしていく。

宝塚歌劇は西洋の歌劇というものを日本にもってきて演じるものとは根本的に違っており、その流れの原点は歌舞伎にある。創立者の小林一三は大衆の感覚からずれてきた歌舞伎を憂い、それに続く国民劇の成立を目指していた。宝塚歌劇はその改良のための一案として捉えられる。唄と舞を伴う劇という日本に古くからある芸能の形式のメリットを活かした上でそれを時代の大衆の趣味趣向に合うように変化させていく、というのが宝塚歌劇の創立当初から取られてきた姿勢だといえる。国民劇への憧れ、すなわち自国のものを見出したいというナショナリティーと、いかに大衆の人気を得るかというポピュラリティー、この二点は宝塚歌劇によって大きな意味を持っている。本発表では大衆の人気を得た音楽として時代の流行歌を取り上げ、楽曲分析より明らかになったタカラヅカメロディーとの比較を試みる。それにより宝塚歌劇作品のポピュラリティーへの追随を確認する。

やなぎみわ 「寓話」の世界観をめぐって
―少女像における翁童思想的変奏とその理想化―
大久保美紀(京都大学大学院)

本発表は、やなぎみわの近年の作品の主要なモチーフである「少女」と「老女」がおりなす世界観について、やなぎにおける少女像がいかなるものかという観点から読み解くことを試みるものである。

今回とりあげる「寓話 Fairy Tale」は、様々な寓話を下敷きとしたモノクロームの写真作品であり、少女と老少女(特殊メイクで老女に扮した少女)が独特な世界観を創り上げる。この作品は、やなぎみわが着想を得たというガルシア=マルケスの『エレンディラ(無垢なエレンディラと無常の祖母の信じがたい悲惨の物語)』が全体を通底するモチーフとなっており、そのパロディとして「無垢な老女と無慈悲な少女の物語」というシリーズ名がつけられている。あるときは冷血で異形の存在としての老女が少女に重ね合わされ、あるときは両者がおぞましい様子で拮抗し合い画面を構成する。

やなぎみわのこうした世界観が、グロテスクで不気味なものである一方で、同時に耽美で非常に魅力あるものとして受け入れられるのはいったいなぜであろうか。その魅力はどこにあるのであろうか。

わたしはこの問いに対して、この作品において提示される少女像と作者自身により述べられる翁童思想(老人と子どもを神聖視する信仰)との関連、および社会的に趨勢をもって理想化されている“少女イメージ”なるものと結びつけることによって解釈しようと思う。 今日、日本現代文化の様々な領域で、「少女的なもの」が熱心に愛好され、追求され、受容されるという現象がある。それは、単に、「萌え」に象徴されるオタク的存在やごく一部の限られた共同体にのみ限定されるものではなく、女性側の強い嗜好というものが示すように、程度の差を含みながらある程度一般化できる傾向であると見なすことが出来る。例えば、ハンス・ベルメールの名とともに思い起こされる球体関節人形やドールの愛好、あるいはロリータ的ファッションの流行、「かわいいもの」の礼賛、そして透明で無垢な少女的身体を獲得するためのダイエットや行き過ぎによる摂食障害といったものも一系列をなすだろう。

女性自身による少女崇拝は、シュルレアリスム期における男性的なそれとは断絶するものである。そして今日、この性質を異とする少女崇拝が再び勢いをもち、非常に熱心に追求されているのは偶然ではなく、なにか必然性や本質的なものが存在するように思われる。やなぎみわの世界観を考察することは、そのような問題に対して一つの視野を見いだす契機となりうるのではないだろうか。

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