視聴覚文化研究会

AUDITORY VISUAL CULTURE STUDIES

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第十三回視聴覚文化研究会 発表要旨集
  • 日時:2008年11月15日(土)13:00〜
  • 会場:神戸大学文学部152教室(アクセス

イメージのなかの身体―20世紀初頭フランスの身体表象についての考察
増田展大(神戸大学大学院)

20世紀初頭、フランスの教育機関には「身体のルネサンス」というスローガンが掲げられていた。この時期、それまでのブルジョワジーの退廃的な生活や身体の在り方に対し、急激な変容が社会において要請されていたのである。そうした動向を顕在化させたのは、当時流行をみせたスポーツ、なかでもジムナスティークと呼ばれる身体・道徳形成術であった。

「体育」や「体操」とも訳されるジムナスティークは、1870年の普仏戦争での敗戦や対独感情を直接的な契機として一躍、脚光を浴びることになった。軍事・教育・スポーツといった領域に跨るジムナスティークの流行は、しばしば先行研究において次のように説明されている。すなわち、それは愛国心に裏打ちされた教育制度として、第一次世界大戦へと突入する国民身体の形成過程として、または植民地主義において西洋の文明化を誇示する優生学的なプロパガンダとして機能した、というような説明である。だがその一方で、ジムナスティークは写真と結びつくことによって、数多くの身体表象をうみだした実践でもあった。連続写真で有名なマレーの助手、ドゥメニーが体操家でもあったように、ジムナストたちの身体表象は同時代の写真的実践と不可分の関係にあったとも言える。本発表でとりあげるデボネもまた、パリのスタジオにおいてジムナストたちの写真を数多く撮影し、それを雑誌『身体鍛錬[La Culture Physique]』に掲載しては、自らの身体鍛錬の方法とその効果を広く宣伝した研究者の一人であった。過剰なまでに身体を可視化しようとする彼らの実践の背景には、写真撮影や印刷などの技術的発展だけでなく、解剖学や衛生学といった科学的言説の展開があったとも考えられる。

本発表では、こうしたジムナストたちの身体表象を分析することによって、従来の言説のような政治的イデオロギーのみに回収されない、身体とイメージとの複雑な関係を浮かび上がらせてみたい。演出やポーズなどのさまざまな技法を凝らすことで「理想的な」身体を実現しようとするジムナストたちの身体表象には、当時の科学的言説だけでなく、ある種の美的コードも不可避に介入している。それら諸々の視覚コードを吸収した身体表象を腑分けすることによって、そのあいだを揺れ動くイメージのなかの身体を再考してみたい。

「没入感」と「浮遊感」
――《ディヴィナ・コメディア》(1991年)におけるヴァーチャリティとリアリティ
岩城覚久(関西学院大学大学院)

1991年からコラボレーションによる制作活動を始めた砥綿正之と松本泰章の作品は、一般には、メディアートの作品として認知されています。本発表では、そのほとんどがインスタレーションであり、現存しない砥綿+松本の作品群のなかから、特に最初のコラボレーション作品、《ディヴィナ・コメディア――死のプラクシス》に焦点を合わせ、それが、「ヴァーチャルとは何か」という問いに取り組む興味深い実践であることを示します。

《ディヴィナ・コメディア》の特性を浮き彫りにするために本発表ではまず、1980年代後半に工学の分野で提唱され、一般にも広く知られるようになった「ヴァーチャルリアリティ」という概念を検討します。ヴァーチャルリアリティとは「もうひとつの現実」を人工的に構築することを目指す技術の総称ですが、そこで、「リアリティ」の要因と想定され、重要視されているのは、世界と人間との相互作用(インタラクション)、いわば、人工世界とユーザとの「アクチュアルな」関係です。

それに対して、青色のジェルが敷き詰められた巨大なプールに被験者を横たわらせ、身体を浮遊させる《ディヴィナ・コメディア》は、感覚=運動的な連関を宙吊りにすることによって、死にゆくプロセスをシミュレートしようとする作品です。アイソレーションタンクやシンクロエナジャイザーを参照するこの作品はしたがって、ベルクソンが論じたような「ヴァーチャルなもの」の位相に積極的にかかわろうとする作品だとみなしうるものです。

このように、同じ「ヴァーチャル」という言葉で語られうるもののなかにもほとんど対立するかのようなふたつの体制――「感覚=運動的連関の強化」、「知覚の削減」、「没入感」などによって特徴付けられる「ヴァーチャルリアリティ」の体制と、「感覚=運動的連関の停止」、「過剰な思い出」、「浮遊感」などによって特徴付けられる「ヴァーチャリティ=リアリティ」とでも言うべき体制――があり、1991年に制作された《ディヴィナ・コメディア》が、同年にある種の流行語となっていたヴァーチャルリアリティを多分に意識しながらも、それとは全く異なる次元のリアリティを、やはり同年に脚光を浴びた「臨死体験」研究に連動するかのように具体化した、興味深い実践であることを明らかにすることを試みます。

初期テレビジョンにおける「公開実験」研究―科学技術社会論/メディア論からの展望
飯田 豊(福山大学人間文化学部 専任講師)

地上波放送のデジタル化が進行し、インターネット放送やワンセグが普及を遂げている今、「テレビ」とは何かという問いに答えるのは、決して容易なことではなくなってきた。これまで報告者が試みているのは、われわれの生活に根ざした「テレビ」という科学技術について、「放送」や「マス・コミュニケーション」といった概念との関わりを自明とせず、その成り立ちを根源的に問い直すことである。とりわけ、昭和初期におけるテレビジョン技術史を解釈し直し、博覧会や展覧会、百貨店の催事場などで人気を博していた「公開実験」の変容に焦点をあてることを通じて、いかなる視聴空間のあり方がかつて模索されていたのかを明らかにしてきた。

その第一のねらいは、メディア史というアプローチがこれまで目指してきた通り、今日の「テレビ」のあり方を異化する歴史社会学的な視座を探ることであり、多言を要しないだろう。第二のねらいは、より実践的な問題関心にもとづくものである。メディア論において社会構築主義の視座が共有され、メディアの今日的様態を相対化する知見が蓄積された末、その可能的様態を発現させようとする実践研究が、近年さまざまなかたちで試みられている。報告者自身、そうした活動を精力的に展開している一人であり、メディアのあり方を社会に向けて実験的に示すという営みのダイナミズムについて、歴史社会学的な観点から意味付けておくことが、今、緊要だと考えている。

このことはメディア論に限らず、科学技術社会論の潮流と通底する。科学は論理的に首尾一貫し、客観的な実在を反映した確証的知識であるという考え方と決別し、80年代以降の科学論においては、クーンのパラダイム論の影響下で、科学の社会的構成が議論されてきた。こうした動向は技術論とも深く関わりながら、科学や技術の柔軟性が論じられ、その相対化が(時として過剰に)試みられてきた。このような議論を踏まえて、多くの科学技術分野で近年、専門家と非専門家のコミュニケーションのあり方として、専門家の研究開発活動の成果を非専門家が理解するという欠如モデルではなく、研究開発段階から非専門家が、専門家共同体の意思決定や方向付けに参画していく相互作用的な関係が求められるようになっている。

さまざまな科学技術が日常生活のあらゆる領域に浸透している現在、メディアと人間との望ましい関係をデザインしていくためには、その生産と消費の相互作用、専門家と非専門家の対話が不可欠である。この報告では、初期テレビジョン研究に取り組むなかで得られた知見を具体的に示しつつ、科学技術の専門家と非専門家、あるいはメディアの送り手と受け手が、お互いに初めて接触し、交渉しうる具体的な場としての「公開実験」に着目することの意義を考えたい。

 この報告は、平成20年度日本学術振興会科学研究費補助金(若手スタートアップ)に採択された研究課題「科学技術コミュニケーションの歴史社会学 ―科学技術社会論とメディア論の接合に向けて」の成果の一部である。
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